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更新日:2019年4月5日

徳川家康危篤

徳川家康は一六一六年(元和二年)四月十七日、今の静岡市(駿府)で亡くなりました(享年七十五)。亡くなる四十日ほど前の三月七日付で駿府滞在中の伊達政宗が涌谷邑主第三代伊達右近定宗に宛てた書状があります(個人蔵)。その内容は「先月(二月)廿四日付の(伊達右近よりの)書状を本日七日(三月七日)に読んだ。大御所様(徳川家康のこと)の病状は回復の兆しがない、食事もはかばかしくないので人々はみな心配している。この状態では、この先どうなるか分からないので、様子を見届けるべく滞在する」としています。

さすがに天下の大御所様が重篤であるということで、全国の大名たちが見舞いのために駿府へ馳せ参じたようです。同時に、全国各地にいる大名の重臣たちも無関心ではいられませんでした。仙台藩一門である涌谷伊達家としても、その動向の掌握に努めるのは当然のことでした。奥州の片田舎にいても常に中央の動静に耳をそばだてていたことが判かります。徳川家康書状

この手紙によれば、仙台藩では伊達政宗の側近である松山の茂庭綱元と佐沼の津田景康を通じて伝えるようにしたようで、詳しいことは津田景康などから聞くようにとも述べています。

現在のところ、伊達政宗が徳川家康の病状について家臣に書き送った手紙は五通あります。『仙台市史資料編』に載る茂庭綱元宛の三通と岩出山の伊達宗泰宛の一通、そして本書状との五通なのです。

(涌谷町文化財保護委員長:櫻井伸孝)

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