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更新日:2019年6月19日

涌谷伊達家の職能家臣

先ごろ、町内の某家から明治十四年(一八八一)筆写の「小笠原流目録写」という表題の、饗応(きょうおう)、会食の際の作法書が発見されました。残念ながら料理の調理法(レシピ)の類いではありませんでしたが、同家が藩政時代に涌谷伊達家の「料理人」として知行を得ていた家であることが裏付けられました。

宝暦十一年(一七六一)、天保八年(一八三七)の「涌谷伊達家家臣名簿」には、お城の調理場に出仕する「料理人」のほか、大工棟梁および大工、刀鍛冶、鉄砲鍛冶、関連する研ぎ師、鞘師(さやし)、金具師(かなぐし)、塗師(ぬし)などのほか、畳刺し、馬医、伯楽、十数人の医師がいました。また、能楽師―仕舞(しまい)の家はシテ方、ワキ方があり、地謡(じうたい)、鼓、笛などの専門があった―や、茶道の師匠、ほかに絵師などの芸能者たちの家臣が多数いました。

涌谷伊達氏は、しばしば藩主の訪問を受けたほか、伊達家一門として藩主伊達氏に付き従って江戸城に登城しました。その都度、幕府の重臣や諸大名の重役などと交流する機会があったため、藩主に恥をかかせぬように、粗相のないようにと、常に礼儀、作法のほか、和歌の応酬、能楽や茶道の披露など、必須の素養を身に付けねばなりませんでした。そのために邑主も家臣も日常的に趣味を兼ねた歌会や茶会が催され、城中には能舞台があり、鑑賞することが度々あったようです。

このように、さまざまな職種の職人が家臣として禄を与えられて、それぞれの技術・技能を家業にして家臣の勤めとして奉仕していました。おそらく戦国時代、亘理郡に居たころからの遺風で、領内ですべてが完結する自給体制が整えられていた名残りと考えられます。

また、白石市や登米市では能楽堂が造られるなど、能楽が町の文化として受け継がれていますが、涌谷ではこのような遺風が現代まで継承されず廃れてしまいました。

(文化財保護委員長:櫻井伸孝)

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