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更新日:2013年8月22日
涌谷大橋からお城への道の左、江合川の河川敷内にかつて学問所「月将館」があり、今はそこに文化財標識があります。
月将館は、天保九年(一八三八)涌谷伊達家第十三代義基(桂園が家臣黒澤太仲の建議により設立した郷学(藩学に準じた地方士分の子弟の教育機関)で、表丁といわれた通りのこの場所にあった。初めは学習館といい、安政二年(一八五五年)第十四代邦隆(梅渓・桂香)の時代に、月将館と改称された。初代の学頭は阪元玄岡、ついで有名な斎藤竹堂が督学を勤めたので、諸国から頼三樹三郎や赤松寸雲など、名のある文人・武人・学者・志士が大勢涌谷を訪れ、仙台藩の藩学養賢堂に次ぐ領内教育の中心的な郷学として、藩外にも広く知れわたり、安政年間に最盛期を迎えたといわれている。月将館の存在は単に士分の子弟教育に役立ったばかりでなく、一般庶民の向学心をも育てたが、設立以来約三十年間続いて明治維新になって廃止された。
封建社会の動揺が深刻となった19世紀、涌谷も大変な時代に直面していました。財政の悪化で困窮していたところに、大災害が拍車をかけたのです。文化・文政・天保時代は大洪水・大凶作・大地震・大火が連年発生し惨状を極めました。天保4年、義基は16条の「条論」により、庶政改革を布告しました。その中に月将館設立につながる考え方が見られます。
一、臣子たる者忠孝の心懸申すまでも無く候。
一、学問は好候はば身分の差などこれ無く候。忠孝二道も無学文盲に候得ば間違いもこれ有るものに候、まず孝経大学ばかりも是非吟味申すべく候。
一、武芸は面々家業と心得修行申すべく候。弓馬剣槍一様ならざる事に候間・・是非一芸は熟練候様心懸べし。
一、諸芸家業の者業道の出精専一の事。
一、師弟の情は礼儀を重んじ、いささかも疎意なき様心得申すべく候。
文武にわたる教育の浸透とその成果が期待されるところに月将館の意義があり、危機を克服するためにも組織的な教育による有為な人材の育成が強く求められました。
学科・・・習字・読書・講義・詩作・作文・剣・槍・弓・砲術・馬術
教科書・・・四書・五経・小学・近思録・左氏伝・文選・文集
教師・・・学頭1名・授業主立30名
生徒・・・300余名
学習年限・・・8歳より15歳に至る8ヶ月
近世は文章による支配、加えて貨幣経済の浸透が「よみ・かき・そろばん」を日常生活に必要不可欠なものとし、私塾と寺子屋は庶民のための教育機関でした。師匠のほとんどは涌谷の家臣で、しかも黒澤太仲や阪元玄岡のような月将館関係者も開塾していることは、領主の政治理念の浸透や体制づくりに実に有効だったでしょう。
師匠の人格や学識は塾生の感化に直結します。すぐれた師匠は向学心に燃え、豊かな才能を備えた若者たちを育てずにはおきませんでした。沼部村の遠山塾から涌谷城下の阪元塾、さらに仙台藩学養賢堂を経て江戸の昌平黌(しょうへいこう)(昌平坂学問所)に学んだ齊藤竹堂はその代表的な例で、江戸後期の儒学者として広く知られました。
涌谷伊達家は、代々文教を重視してきました。13世紀義基も南山和尚・大槻平泉・菅井梅関・佐々木中沢といった人々を来涌させ、家臣に多くの感化を与えさせます。
14代邦隆も月将館の充実発展に努めました。斎藤竹堂を督学(学事の監督)に登用し、赤松寸雲を賓師(客分待遇の師匠)に招き、自らも毎月臨校しました。
月将館を中心とした文武の奨励が実を結んで、涌谷の学問文化は盛んになりました。竹堂を中心とした漢学・詩文の熱気は明治文化への架け橋でした。隆昌の詩文会では村岡蓼州らが復古昑社をつくり、活動しました。いっぽうで武芸も大変盛んになりました。
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