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更新日:2013年7月30日
わが町涌谷は、宮城県北部にあって、奥羽山脈と北上山地南端のちょうど中間に位置しています。
町の中央には標高236mの箟岳丘陵が東西に連なり、まわりの田んぼから見ると、独立した山に見えることから、「箟岳山塊」とも呼ばれています。
箟岳山のまわりには、北に旧迫川、南に江合川、東に旧北上川が流れており、町の東端で合流して石巻湾へと注いでいます。また、山の周囲や河川の自然堤防上にはわたし達の家並みが多く立ち並び集落が形づくられています。そして河川の周囲には美田が広がり、春~夏には稲苗が青々と、秋には稲穂が黄金色に、風になびき、四季の変化を感じさせてくれます。
この美田が広がる平野は、箟岳山の南側で大崎低地、北側では迫川低地と呼ばれる海抜が低い地域のため、わたしたちより少し前の時代までは、河川の氾濫原である湿地や名鰭沼、鹿飼沼などの沼湖が点在していました。
現在も台風の通過や大雨によって、低い土地の道路や田んぼは、水があふれ、ここが低地であることを改めて認識させられます。
こうした涌谷をとりまく自然、とくに沼湖を中心に生活をはじめた人々がいます。
今から約一万年前に始まる縄文時代の人々です。
今から約1万5000年前~1万年前にかけて、それまでの氷河期が終わりをつげ、急速に温暖化がすすみました。
ブナやクリなどの落葉広葉樹林が日本全国に広がり、また現在よりもおよそ100m低い位置にあった海面が急速に上昇し、6000年前頃にピークを迎えて現在の海面より1m高い部分にまで達しました。
箟岳山のまわりでは、約8200年前頃に海岸線の侵入が始まり、7500年前頃には、海岸線がもっとも内陸へと侵入し、南部では現在の小牛田町牛飼地区、北部では長根地区に達しました。
その後は、海岸線の微妙な上下変動と、河川の土砂の堆積がすすんだことによって、海岸線が前進と後退を繰り返しながら、現在の海岸線がつくられてきていると言われています。
しかし、涌谷町周辺においては、もとからの低地のためか、土地の低い場所は沼湖地となり、河川の氾濫原として低湿地が形成されたようです。
このことを物語るものとして、人々が土器などとともに採集した貝や動物、魚の骨などを捨てた貝塚があります。
宮城県は特に貝塚が多くつくられた地域として知られています。
大きく阿武隈川を中心とする仙南地域、松島湾沿岸地域、宮城県北部の北上川中・下流域、三陸沿岸地域の4つに区分されると言われ、それぞれに内容が異なっているようです。
その中で、涌谷町周辺の貝塚は、北上川中・下流域、特に迫川水系の貝塚群として広く知られており、国史跡長根貝塚をはじめ、松崎貝塚、ツナギの沢貝塚、大天馬貝塚、笠石貝塚、境沢貝塚などが箟岳丘陵の麓に分布しています。
これらの貝塚から出る貝の種類を見てみると、縄文時代の前期(約6000年前)につくられた貝塚は、カキやハマグリ、アカニシ等の鹹水産(かんすい)の貝が多くを占め、縄文海進の影響のもと、ムラづくりが始まったようです。
その後、中期(約5000年前)になると、シジミなどの汽水産の貝が、後~晩期(~約2500年前)にはタニシやヌマガイなどの淡水産の貝が主体となり、変化していきます。
箟岳山周辺の縄文人たちは、海から沼へと変化していく自然環境に合わせ、自分たちの資源採集活動も柔軟に変化させながら村づくりを続けていった様子が読み取れます。
小里地区にある長根貝塚は、総数80を超える数があるとされる迫川水系の貝塚群のなかでも、有数の規模・質・量をもち、さらに縄文時代の始めから終わりまで長期にわたって継続してつくられたムラとして国の史跡になっています。
小高い丘陵尾根上にムラがあり、人々捨てた貝が貝塚となり、馬のひづめのような形をして、囲んでいます。
ムラづくりは、縄文時代早期終わり頃(約6000年前)にはじまり、前期末から中期はじめ(約5000年前)にかけて大きく盛行し、中期末から晩期(~2500年前)にかけて規模を縮小しながらもムラづくりが行われていたようです。
貝塚にはシカ、イノシシ、などのほか、ハクチョウ、ガン、カモなどの水鳥、フナを主としてタイやマグロ、スズキなどの魚類、ヤマトシジミ・オオタニシなどの貝類が含まれていて、長根貝塚周辺の沼湖の資源を中心に狩猟・採集活動を行っていたようです。
また、長根貝塚付近の特徴のひとつとして、隣接して複数の遺跡が同時期に存在していたことが知られています。
長根貝塚が盛んに作られている縄文時代前~中期にかけては、西に大森遺跡(田尻町)や恵比須田遺跡(田尻町)が、縮小期を迎える後~晩期には、南に松崎貝塚、ツナギの沢貝塚などの四遺跡が存在しています。
これらの遺跡は一つ一つが独立したムラであったというよりも、地域(または住居)の核となるムラと狩猟や採集活動などを軸とした機能別・季節別のムラといったような分村関係にあった可能性が高く、複数のムラが密接につながって、一つの地域を形づくっていたと考えられています。
左)長根貝塚の貝層、右)たて穴式住居のこん跡
今から約2500年前になると、稲作を主体とする弥生時代のはじまり、新しい文化がこの地にも及んできます。
長根貝塚周辺では、貝塚や遺跡が姿を消してしまい、2~3の遺跡で弥生土器の破片が見つかっているのに過ぎません。
長年にわたってこの地で自然とともに生活を続けてきた人々はどこへ行ったのでしょうか。近年の調査成果から、仙台平野では、丘陵部から低湿地域へと集落を移動している様子が確認されており、涌谷町周辺においても同じような状況であったことが予想できます。
自然の恵みを核としたムラづくりから現在の「米どころ大崎」につながる米づくりのはじまり、その変化は、縄文の人々のライフサイクルに大きな変化をもたらしたといえます。
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