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更新日:2013年8月22日

わが町涌谷の歴史~その4:武士の活躍と信仰の世界

1、小田保と遠田郡

小田保と遠田郡

古代末期、律令制度のもとに区画されていた「郡―郷」の行政単位が解体したことによって、天平産金によって全国にその名を馳せた「小田郡」(現在の涌谷町を中心とした地域)は、「小田保(おだのほ)」と呼ばれるようになります。

「保」とは、12世紀初め頃に成立した荒廃田の再開発や新田開発を行うために国の官人や領主が申請してできた特別な行政区です。

現在の涌谷町をはじめとする鳴瀬・江合・迫の3河川下流域には、小田保(涌谷町・河南町周辺)をはじめ6つの「保」が地理的に集中しており、陸奥国の官人が主体となって3河川流域の開発をすすめるためにつくられたと考えられています。

また、小田保の成立は、産金地としての再開発を目的としたとも言われています。鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』には、文冶・建久頃(1185~1198)に小田氏による支配があったこと、仁治2年(1241)に小田保内の支配をめぐって紀伊氏が争論したことが記されており、地名などから現在の河南町前谷地周辺と、古代小田郡のあった現涌谷町周辺が小田保の範囲と推定されています。

また、遠田郡の範囲については、金沢文庫に収蔵されている書物の書写地として、「遠田郡長崎郷来迎寺」「平針郷新善光寺」といった寺院の名が見られ、現在の田尻町や小牛田周辺であったと考えられ、近隣の郡と合わせて「河内七郡」と呼ばれていました。

2、武士の活躍

文冶5年(1189)、源頼朝は平泉を攻め、約百年に渡って奥州を治めた藤原氏を滅ぼしました。その結果、功賞として主に関東地方の御家人に東北地方の所領が与えられ、武士が活躍する時代へと移ります。

遠田郡は和田義盛(後に山鹿遠綱)、小田保は上述の小田氏や紀伊氏などに所領として与えられたようです。

しかし、鎌倉幕府の実権を北条氏が握り、各地の地頭職を直に治めるようになると、遠田郡も建歴3年(1213)に北条氏の支配下になります。『余目記録』という史料には、「遠田郡は北条氏の領地であって、毎年砂金が年貢として送られてくる」という記載があり、この頃まで採金活動が行われていたようです。

一方「小田」の地名は、史料の中で見られなくなるため、この頃には遠田郡と合併されたと考えられます。

元弘3年(1333)、北条氏の滅亡とともに、日本の武士達が2つに分かれ争った南北朝の動乱が始まります。

遠田郡の状況がどのように推移したかは判っていませんが、遠田郡内に残る「板碑」に用いられる年号が北朝で使用した年号であることから、概ね北朝の勢力範囲にあったようです。しかし、大谷地地区の御前姫社(ごぜんぎしゃ)板碑群の中には北朝年号から南朝年号に書き換えているものもあり、遠田郡東部は南朝の勢力範囲との境にあって、必ずしも安定した地域ではなかったようです。

室町・戦国時代にも、勢力範囲の構図は変わらず、遠田郡は北朝方・大崎氏(斯波氏)の支配地となり、遠田郡東部と接する南朝方・葛西氏と勢力争いをしていました。

現在の町名である「涌谷」が歴史の中に登場するのはこの頃で、永享3年(1431)頃、大崎氏の支族である涌谷氏が涌谷城に居城したと伝えられています。

しかし、天正18年(1590)、豊臣秀吉によって大崎・葛西氏の領地が没収され、涌谷は近世への転換期を迎えます。

現在も町内各地にはこの中世につくられたと考えられる館跡が多く遺跡として残されており、武士が大きく活躍した様子を伺うことのできる良い資料となっています。

さらに、近年、小牛田町の一本柳遺跡では、中世の集落跡や区画された道路が発見されるなど、郡内の人々の暮らしの様子を知るための手がかりも増えてきており、今後の調査・研究が期待されます。

3、信仰世界の隆盛

中世における社会の様子を知る手かがりのうち、欠かすことのできない資料として信仰にまつわる資料があります。古代において国家が国を治めるために広めた仏教であったのが、貴族・武士や有力者をはじめとする一般の人々に、仏教が広く浸透した時代となりました。町内には数多くの資料が残されています。

平安時代には、末法思想の広がりとともに経典などを埋納する「経塚」が流行し、涌谷町でも花勝山地区に鏡三面を埋納した緑山経塚が知られています。また、成沢地区の行人塚もこうしたものの一種ではないかとする考えもあります。

御前姫社板碑群

鎌倉時代に入ると、現世利益・功徳の追及や死者の追善を目的とした「板碑」の建立が、関東地方の影響をうけ、石巻地区に流入し建てられるようになりました。北上川下流域を中心にして分布し、稲井石(粘板岩)を多用することから稲井石文化圏などと呼ばれています。

涌谷町内で確認されている最古の板碑は、二ノ袋地区の弘安元年碑(1278)で、他にも大谷地地区の御前姫社板碑群、中野地区の滝石不動、地蔵図碑、箟岳地区の宝徳元年碑などから、信仰世界の様子を通して人々の帰依の深さを伺うことができます。

また、「持渡津」と呼ばれる人々が、鎌倉時代末期~室町時代にかけて遠田郡の人々を引き連れ、紀州熊野に案内することか幾度となく行われており、当時、大寺院であった箟峯寺が大きく関与しているのではないかと推定されています。

4、箟峯寺

箟峯寺観音堂

箟岳山の上にある箟峯寺は、寺伝によれば、宝亀元年(770)大伴駿河麻呂(おおとものするがまろ)の蝦夷征討の際に加賀の白山妙理菩薩を祀ったことを契機に開山する、「国家鎮護」を祈祷する古代からの一山寺院です。

平安時代末~鎌倉時代初期の箟峯寺は、数十からなる坊の多くが移転・再興されるなど隆盛を迎え、念仏坂には嘉歴4年(1329)の板碑が建てられています。

南北朝時代には、寺の造営を目的として、時の権力者足立直義に名取・志田郡などの棟別銭(むねべちせん)(家屋の軒数別に賦課した臨時課税)による費用の確保を申請し、本尊の十一面観音造仏に関連して胎内経の書写を行っており、歴応3年(1340)~文和2年(1353)にかけて、時の権力者や奥州管領を巻き込んで、大規模な改修工事が行われたと考えられています。

室町時代には、箟峯寺を構成する各坊が南谷と北谷に二分され、北谷は大崎氏、南谷は葛西氏の為に祈祷にあたりました。前述の賢文法印、源秀律師が活躍した時代でもあります。

また、戦国時代には、葛西・大崎両氏の帰依により、観音堂の修復を半分ずつ受け持って行った事が伝えられています。

このように箟峯寺は中世に、時の権力者の帰依を受け、大きく隆盛したことが知られており、かつ前述の「板碑」造立や「持渡津先達」など地域社会にも密接に関連していたと推定されます。このため、箟峯寺は当地域の中世社会をひも解くための、重要な鍵となるものと考えられています。

その5に続く

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