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更新日:2013年8月22日

わが町涌谷の歴史~その2:小田郡・遠田郡の成立

1、律令国家と陸奥国

今日の涌谷は宮城県遠田郡に属していますが、古代には陸奥国小田郡の所属でした。西隣が遠田郡で、両郡とも八世紀前半に建てられました。

中世、小田郡は遠田郡と合併し、遠田郡が名実ともに1300年の歴史を伝えています。古代の中央集権国家は律令国家です。律(刑法)と令(行政法)を基本法典として、天皇を頂点とする巨大な官僚組織により、地方を国-郡-里(のちに郷)に分けて統治しました。

陸奥国は7世紀の中ごろに東北地方の太平洋側に建国され、その段階の領域は北が仙台・名取平野どまりでした。多賀城が陸奥国府として機能しだすのが8世紀初頭ですので、当時の県北地方は部分的に中央の支配が及んでいたとしても、全域に郡を立てる状態までには至っていませんでした。

10世紀初めの法制書に陸奥国の郡は全国最大の35郡が記載され、そのうち県北の諸郡は黒川・賀美・色麻・玉造・志太・栗原・長岡・新田・小田・遠田・登米・桃生・牡鹿郡の13郡です。

歴史書には、これ以外に丹取(にとり)郡や富田郡・讃馬(さぬま)郡がありますが、これまでに郡名が変わったり他郡に併合されたりしています。

県北諸郡の建郡時期を大きくとらえれば、栗原・登米・桃生3郡と讃馬郡は8世紀後半の建郡、残り10郡と丹取・富田両郡は8世紀前半です。なお、陸奥国最北の郡は岩手県の和我(わが)・薭縫(ひえぬい)・斯波(しは)三郡で9世紀初めです。このように陸奥国は時代とともに北へ国境線を押し上げて、国づくりを進めました。

平安時代に入ってもまだ国づくり進行する国は他にありません。

2、小田郡の成立

小田郡が歴史書で初めて確認できるのは天平21年(749)の黄金献上時です。遠田郡は早く天平9年(737年)に見えます。

小田郡は、黒川以北の十郡”の一郡として建郡されました。「十郡」とは、黒川・賀美・色麻・富田・玉造・志太・長岡・新田・小田・牡鹿郡で、すべて大崎平野と石巻平野の郡です。

遠田郡は同じ大崎平野にありながら自然地理的な取扱いの他は別扱いでした。天平11年(742)の正月、黒川郡以北の十一郡”(十郡プラス遠田郡)に赤雪が降りました。赤雪とは寒冷地帯雪上に赤色の藻類が繁殖するためにできる赤色の雪のことです。この記事によって遅くともこの時までに「十一郡」が成立していたことが判ります。歴史書には志太郡が慶雲4年(707)、遠田・賀美両郡は天平9年(737)にみえます。では全体として建郡時期はどこまで遡るのでしょうか。下の表によると、黒川以北の「十郡」のうち8つの郡の郡郷名が坂東七国や陸奥国南部の国郡郷名と一致しています。

黒川以北の郡郷名

対応する国郡郷名

小田郡小田郷

上総国小田郷(埴生郡)

小田郡賀美郷

牡鹿郡賀美郷

賀美郡

常陸国賀美郷(多珂郡)

武蔵国賀美郡

賀美郡磐瀬郷

陸奥国磐瀬郡

色麻郡相模郷

相模国

色麻郡安蘇郷

下野国阿蘇郡

志太郡志太郷

玉造郡信太郷

常陸国信太郡

玉造郡玉造郷

下総国玉造郷

(埴生郡・匝嵯郡)

黒川郡

新田郷

上野国新田郡

黒川郡白川郷

陸奥国白河郡

このことは、坂東や陸奥南部から人々がこの地方に移住して新しく村を建設した際に、故郷の地名を移したものと考えられます。これを裏付ける関東系の土器が県北各地の遺跡から発見されている(涌谷追戸の横穴墓でも出土)ほか、歴史書に次のような注目すべき記事があります。霊亀元年(715)5月、相模・上総・常陸・上野・武蔵・下野六国の富民千戸を移して陸奥に配す

六国に対応する郡郷名は表にすべてあって、坂東の国々との深い関係を示しています。千戸なら小郡(百戸で成立)は十郡が一度に立郡します。しかも富民ですから、すぐにも律令制度を適用できる人々を家族ぐるみで移住させたわけで、多くの郡を一挙に立てる意気込みを感じる記事です。また「十郡」の郷数をみると、南部諸郡の一郡あたりの平均郷数は7.2、それが「十郡」では平均3.4と南の半分以下です。

これも小規模な郡をつくろうとしたあらわれでしょう。

公民を大量に移住させたこの霊亀元年はまさしく「十郡」成立(必然的に小田郡の成立)の画期といえましょう。

時代は霊亀から養老・神亀そして天平へと推移しますが、霊亀から養老年間(715~723)を建郡時期のピークと見てよいでしょう。これらの郡では、田尻町木戸の瓦窯跡出土の文字瓦に「(新田)郡仲村郷他辺里」とあるように郡郷里制が敷かれました。

3、遠田郡の成立

遠田郡は歴史書の天平9年(737)に

田夷(たえみし)遠田郡領外従七位上遠田君雄人を海道に遣わす

と初見します。以来平安初期までの約一世紀、郡人はかなりの人数で登場しますが、“田夷の姓”を有しているのが特徴です。”田夷”とは水田農業を生業とする蝦夷の意です。「君(公)」という身分をあらわす一種の称号を氏と名の間につけて、遠田郡人を特定しました。陸奥国で田夷といえば遠田郡人です。

古代の中国には、自らは世界の中央に在る最も開化した民族で周辺の諸民族は遅れているという”中華思想”が根強くありました。天皇の支配する律令国家もこの影響を受け、東北の現住民とくに未支配地の人々を辺境の”化外の民”として”蝦夷”と蔑称し、支配者はこれを王化し教化するのだと高圧的に臨みました。

“田夷”の呼称にもこの考えが強く根底にあります。延暦8年(789)5万3000に近い政府の大群は”胆沢の賊”平定の軍事行動を起こしました。

坂東の安危、この一挙にあり

と桓武天皇が有名な勅語を与えた大群です。

しかし6月、北上川中流域の戦場で阿弖流為(あてるい)率いる蝦夷軍に大敗しました。

遠田郡領外正八位上勲八等遠田公負押人(とほだのきみおひと)は政府軍に従軍して軍功を挙げ、延暦10年2月に外従五位下という地方人として高い位を授かりました。

この時の彼は”田夷の姓”「遠田公」を改姓して「遠田臣」となっています。それは前年(9年)に押人が改姓を嘆願して下賜されたものでした。彼はこう述べています。

自分は既に濁った蝦夷の風俗を脱して志は内国の民と同じです。このうえは生活も公民と同じくありたいのです。しかし依然として未だに”田夷の姓”のままでは永く子孫に恥をのこします。どうか夷姓を改めて公民と同列の姓を与えてください。

弘仁3年(813)には遠田郡人竹城公金弓(たかぎのきみかなゆみ)等396人が子孫の恥として”田夷の姓”の改姓を請願して新姓を与えられ、弘仁6年には遠田郡人竹公音勝(おとかつ)等165人が改姓しています。

遠田郡人は、”田夷の姓”を有する限り公民でない蝦夷として扱われ、公民なら負担すべき課役もなく逆に禄の支給を受けました。

何故に「遠田郡」が黒川以北の「十郡」と律令制度上の差別取り扱いを受けたのか。それは遠田郡の建郡の次第と深く関係することであったのです。

遠田郡の成立を考えるうえで次の天平2年(730)の記事が注目されます。

陸奥国が「管内”田夷村”の蝦夷らが既に賊心を悛(あらた)めて教喩に従っている。

そこで郡家(ぐうけ)を田夷村に立てたい(建郡したい)。」と申請してきたので許可した

とあります。曰く因縁ありげの文言がすごく気になります。

そこで天平2年以前の現地情勢をみると、養老4年(720)・神亀元年(724)と大きな蝦夷の反乱が発生しています。

とくに神亀元年の反乱は海道蝦夷がおこしただけに、海道に属する小田・新田・牡鹿郡地方の事態は深刻で、鎮圧には当地の豪族たちも動員されています。征夷軍の派遣で乱は鎮圧され、その直後に抵抗した強硬蝦夷737人が遠く九州や伊予・和泉国へ強制移配されています。

このような事態をふまえて遠田郡の建郡を考える必要がありましょう。遠田郡の位置は東の小田・西の長岡・南の志太・北の新田の四郡に囲まれた内です。その領域も二郷と「十郡」の平均3.4郡よりさらに小規模です。

「十郡」は公民(移民)が主体の郡なのに、遠田郡は田夷郡です。このような性格の異なる郡を同時進行で、しかも外側ではなく内側につくるのは困難です。遠田建郡が天平2年と「十郡」より遅れるのも理にかなうのです。

そこで遠田郡の建郡事情をまとめると

海道蝦夷の反乱が集結して程ない神亀初年に「十郡」の或る郡(小田郡か新田郡)を分割して反抗蝦夷を強制移住させ村を建てた。それが水田農耕地帯の田夷村である。天平2年前非をすでに悔悛めたので”田夷郡”を建てた。これが天平9年までに「遠田郡」の名を得た

となります。

弘仁3年と6年で改姓した田夷遠田郡人は合計561人、その人々の改姓前の「氏」の名は出身地名を負っています。

竹城・黒田・白石・荒山・小倉・柏原・真野・意薩・遠田などです。

このうち地名の竹城は今日の高城でしょうし、真野は牡鹿郡に、意薩(小里)は小田郡に本来の地名があります。

遠田も小田郡嶋田(タウテン・トウデン)村があって、本来の地名は小田郡内とみられます。このように遠田郡人が負名(おいな)としている地名からも移住の事実が確かめられるのです。

その3に続く

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