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更新日:2013年8月22日

わが町涌谷の歴史~その6:寛文事件と涌谷

1、伊達兵部の登場

事件は、19歳で仙台藩第3代藩主となった伊達綱宗(忠宗の5男)が、日ごろの不行跡の故か、万治3年(1660)幕府から隠居を命ぜられたのに始まります。わずか3年で隠居させられた背景には、伊達氏一門や奉行層など重臣たちの、藩政に対する危惧の念がありました。

同年、家督相続を許されたのは、当時2歳の亀千代(綱宗の子)でした。藩主幼少のため、田村右京亮宗良(岩沼3万石、忠宗3男)とともに後見役を命ぜられた伊達兵部少輔宗勝(一関3万石、政宗10男)は、こうして仙台藩政に登場したのです。

当初、兵部の藩政に問題はありませんでした。しかし、元目付里見十左衛門の弾劾によって奉行奥山大学常辰(つねとき)が辞職(寛文3年、1663)、代って原田甲斐が評定役から奉行に昇格。翌4年、兵部の子東市正宗興(いちのかみむねおき)が老中酒井雅楽頭忠清(さかいうたのかみただきよ)の養女と婚約などが続き、この頃から兵部の専横が目立つようになって来ました。

寛文6年、元目付里見十左衛門は、兵部に対し11ヶ条に亘る諌言書(かんげんしょ)を出し、

  1. 学問軽視を批判
  2. 家臣をえこひいきしていること
  3. 家中には借金を禁止しながら、自身は借金で買米をしていること
  4. 目付衆の登用が分不相応であること
  5. 両後見の間柄が悪いが、幕府に提出した誓紙に背く

など、伊達家存亡の危機に直面していると諌めました。

この里見の行動を伊達安芸や他の有志は積極的に支持しましたが、兵部は動じませんでした。さらに翌7年、仙台目付饗応問題がおきました。幕府派遣の仙台目付歓迎の宴で、御盃頂戴の順序をめぐって騒ぎになったものです。着座の家柄の伊東采女と古内源太郎が小姓や目付、さらに奉行原田甲斐の嫡子主殿(とのも)の後になったことから騒ぎが大きくなりました。采女の親類伊東七十郎は氏家伝次とともに、奉行柴田外記と原田甲斐に対し厳しく追及しました。しかし、その結果は、逆に伊東七十郎一家を死罪、伊東采女を進退召上げ、氏家伝次には流罪という過酷な処罰でした。

このように伊達兵部らの専制的、独裁的な藩政が横行し、とく小姓頭渡辺金兵衛、目付今村善太夫らの専断は著しいものでした。そして、谷地分け問題がおきたのです。

2、谷地分け問題

谷地分け問題とは、登米伊達氏式部宗倫(むねとも)(忠宗の4男、田村右京の弟、綱宗の兄)の知行地と涌谷伊達氏安芸宗重の知行地との境界争いです。

事の初めは寛文5年(1665)、登米郡赤生津谷地(豊里町)と遠田郡小里谷地(涌谷町)に連なる両谷地の領有を巡る問題でした。この時は、伊達安芸が「殿様御為」、「殿様御幼少之内、何によらず申し分がましき儀仕る事御座なく候」と、事を荒立てることなく式部方の主張を受け入れたのでした。

ところが寛文7年になって、再び式部方から式部知行地桃生郡大窪村(矢本町)と安芸知行地遠田郡二郷村(南郷町)にかかる谷地の領有争いが起こされました。

式部の主張は、竿指沼・長沼・名鰭沼を含む谷地の大半は桃生郡に属するというものでした。この主張には安芸は承服できず、政宗、忠宗の墨印をはじめ、証拠の文書類を示して反論しました。安芸は安芸・式部両家の間で決着させようと主張しましたが、式部は強硬で、両後見、奉行、一門の説得にも拘わらず、藩の役人の検分を主張して譲りませんでした。両後見人も持てあまし、幕府大老酒井忠清の内意を聞くまでにいたりました。

寛文9年7~8月にかけて谷地分けの検分が行われました。目付今村善太夫ら数十人の人員で行われた結果は、二郷谷地1233町歩を安芸方に1/3、式部方に2/3に分割するというものでした。

3、伊達安芸の訴え

実際の谷地分けは、安芸にとって大いに不満のある、不公正なものでした。たとえば

  1. 安芸方に3分の1よりも大きく食い込んだ境界設定
  2. 名鰭沼は元々全体が遠田郡に属するにも関わらず、桃生郡と二分されたこと

その他にも式部方へ有利に境界が決定されるなど検分役人の依怙が歴然でした。

そこで安芸は、仙台目付が江戸に帰るのを待って、寛文10年(1670)正月、柴田・原田・古内の3奉行宛に谷地分けの不公正を訴えました。しかし、原田・古内は堪忍するようにとの返事をよこしたので、安芸は、江戸にいる両後見人に訴えたのです。

ところが両後見人は、回答を先延ばしにしてなかなか返事をよこしません。9月になって、安芸は両後見人に催促の書状を送っています。この間、両後見人は、柳川藩主立花飛騨守、幕府申次衆らと相談を重ね、内々に老中や大老酒井雅楽頭に達していました。申次衆は、安芸に堪忍するようにとの連名の書状をよこしましたが、安芸は納得せず、11月に申次衆宛に口上書をもって訴えました。さらに同月、仙台へ下向中の目付に対しても、伊達兵部、原田甲斐らの悪政を訴えたのでした。安芸の主張は「殿様御為」であり、そのため伊達兵部ら一派がいかに藩政を壟断(ろうだん)しているかを明らかにすることでした。谷地分け問題の依怙についても、その一例として積極的に主張したのでした。

4、老中審問と安芸の手紙

安芸の訴えは一年がかりで正式に取り上げられ、幕府直接の扱いとなり、関係者は藩の一大事と緊張しました。

幕府申次衆より安芸、柴田、原田及び谷地検分役人4人に対し、寛文11年2月中に江戸出府の召喚状が届きました。いよいよ幕府による審問の開始です。

安芸は、円同寺(現見龍寺)住職石水玄劫(げんこう)和尚より「見龍院殿徳翁収澤大居士」の法号を授けられ、2月2日江戸へ向けて出立しました。同14日付の安芸の一報から絶命前夜(3月26日)までの間に前後19通の書状を、家督兵庫宗元と次男黒木中務宗信(なかつかさむねのぶ)宛に書き送っています。それらの書状からは、審問の様子、諸大名や江戸市中の反響、審問に対する慎重な心遣いなど伊達安芸の人物、人柄が偲ばれます。

2月16日、申次衆より最初の審問があり、夜には今村善太夫ら検分役人ら4人も事情を聴かれています。

17日付の書状で

(殿様)御為を第一に存知」、

「谷原分け不直之儀、証拠に仕り申出候由申」

「覚書、絵図、証文など引合せ・・・(柴田)外記、(古内)志摩書状之趣も具に御目に懸け」

たといい、審問の様子を書き送っています。

25日付の手紙ではこれまでに発送した手紙が到着したかどうかを確認、また申次衆のなかに兵部に味方する者がいて対応に苦慮していること、保科(会津)、佐竹(秋田)の諸大名や江戸市中の評判が自分に味方していることなどを述べています。

2月27日には老中宛の「口上書」を申次衆に提出したこと、元仙台目付だった何人かが安芸の仙台での様子を老中に報告したとも伝えています(3月2日付)。

3月4日には安芸が月番老中板倉内膳正の審問を受けました。先の申次衆の審問の時と違い、口も渇かず、間違わずに返答出来たと述べ、また「御老中へ召出され、在り難き事・・・存分を申上げ本望」だと家中の者たちが申し唱えるように指示するようにと言っています(3月7日付)

3月7日には、柴田外記と原田甲斐が呼び出され、1人ずつ審問されました。柴田は「御為第一に・・・・我等心人と同心に申上げ、老中御尋も御懇」であったが、原田には「少し存入り各別にて御尋之義、少し相違の御挨拶」、原田が「しかじか申さず候に付色々御しかけなされ候て尋ねさせられ・・・行き當り申候」と板倉殿方より知らせてきたとのことです(3月9日付)。

原田甲斐はようやく事態の不利を感じたのか「甲斐、玄蕃、金兵衛、善太夫昼夜寄合候て、十一日とやらんに書物申次衆へ差出候由・・・実儀にも候哉」と動き出しています(14日付)。23日の書状には20日甲斐が板倉殿に呼び出され、先に老中に提出していた「連判之書物」を返され、「罷帰(まかりかえ)り、以之外不機嫌にて中々心元なき様に見え申由」だと、また、その夜甲斐のところに集まって「(津田)玄蕃、金兵衛3人・・・夜更けまで相談」したとのことです。

そして伊達安芸の書状は、彼が大老酒井雅楽頭邸で原田甲斐の凶刃倒される前夜、3月26日に認められた書状が絶筆となるのです。

寛文11年3月27日午前11時頃、伊達安芸、原田甲斐、柴田外記、古内志摩の関係者一同は月番老中板倉邸に集まりましたが、昼近く大老酒井邸に来るよう連絡がありました。酒井邸に移り、一人ずつ審問を受けたところで、突如原田甲斐が伊達安芸に脇差で斬りかかったとのことです。

原田甲斐は、居合わせた柴田らに討たれましたが、柴田はあわてた酒井雅楽頭の家来に斬られ落命しました。

見龍廟

安芸の遺骸は翌日荼毘に付され、4月7日江戸を発ち、15日に涌谷に帰ってきました。4月3日、幕府は伊達兵部に土佐藩お預け、田村右京に閉門を命じました。兵部の子宗興は豊前小倉藩お預けとなり、廃絶されました。

6日には藩主綱基(のちの綱村)に対し、本来領地召上げのところ、幼少の故をもって「御宥免」を言い渡しました。

こうして伊達安芸の一念が伊達家の危急を救ったのです。

 

その7に続く

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