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更新日:2013年8月22日

わが町涌谷の歴史~その10:学校教育の整備と普及

1、小学校の開設

わが国の学校教育の隆盛は、明治5年(1872)に公布された「学制」に端を発します。

新政府の指導者たちは、欧米列強の富強が、開化した国民によって支えられていることを学びました。そこで、多くの外人教師を招き、多くの留学生を派遣して新技術の輸入、科学教育の振興を図るとともに、国民開化を目指す積極的な教育政策を展開したのです。

(むら)ニ不学ノ戸ナク、家ニ不学ノ人ナカラシメン事ヲ期ス

の教育理念のもとに、明治6年、宮城県下でも合計226校の小学校が一斉に創立されました。涌谷町内では現在の5校の小学校のうち、4校が設立されています。

江戸時代の学校には身分や性別による区別が厳然とありましたが、明治以後の学校は男女等しく学ばせる国民教育が目指され、年齢・学力などの条件がそろえば誰でも入れるようになりました。しかし、当時は月謝が相当に高く、女子の就学率は低かったのでした。

教育内容も大きく変わりました。江戸時代の寺子屋では、読み・書き・そろばんが中心でしたが、明治以後の小学校では科学や音楽、体操などという教材が加わりました。運動場ができたのは、明治以後の学校です。

また、その授業も個人対象のものから一斉授業が中心になり、入学の時期も一定に、そして新級のための試験制度も設けられるようになりました。

学校は、始め寺や神社を借りていましたが、次第に立派な校舎が建てられました。明治になって多くの日本人が体験した最初の洋風家具、それは小学校の机と椅子でした。教室も畳敷きに天神机(手習机)ではなく、黒板に向かって机と椅子がずらりと並ぶ洋式の教室になりました。

2、学校教育の統制

近代教育の基礎を定めた「学制」は、明治初年の段階では個人主義・自由主義的でしたが明治19年(1886)、にだされた学校令によって国家主義的に改変され、明治23年に発布された「教育勅語」でその方向が確立されました。

ここでは、前年制定の「大日本帝国憲法」の精神に基づき、忠君愛国の思想を強調した教育方針が明確にされています。これが太平洋戦争の敗北に至るまで学校教育の基本理念となり、国民の人権より国家が優先されました。

明治23年には改正「小学校令」も出され教育目的を規定しています。法令が全国小学校教育の目的を画一的・実態的に規定するようになったのはこのとき以来です。

明治36年からは、全国の学校で使用する教科書の国定制度が始まり、学校は何を教えるかという「内的事項」まで国家基準の適用を受けるようになりました。

涌谷町内の学校のあゆみ(『わたしたちの涌谷町』より)

明治6年 小里・涌谷・馬場谷地・猪岡短台小学校が設立。
明治8年 涌谷小学校上郡支校が設立。
明治10年 吉住小学校が設立。
明治12年 上郡支校が上郡小学校となる。
明治14年 小学校の学年編成が改正。初等科3年、中等科3年、高等科2年で初等科が最低年限となる。
明治17年 この頃、馬場谷地小に高・中・初等科、小里小に中・初等科、涌谷・上郡・猪岡短台・吉住小に初等科があった。
明治19年 馬場谷地・涌谷両村が学区組合となり、馬場谷地小が涌谷高等尋常小学校男子部、涌谷小学校が女子部に。
明治22年 町村名が変更。馬場谷地村→涌谷町、涌谷・上郡・下郡・小塚→元涌谷村、吉住・太田・小里・成沢・猪岡短台・箟岳村→箟岳村となる。
明治25年 猪岡短台小と吉住小が合併し、吉住尋常小学校となる。
明治33年 学区組合を解き、涌谷尋常高等小学校と元涌谷尋常高等小学校となる。
大正8年 遠田郡立涌谷実科高等女学校(今の涌谷高校)が設立。
大正10年 涌谷実科高等女学校が宮城県涌谷高等女学校となる。
昭和2年 上郡尋常小が元涌谷尋常高等小学校の分教所となる。
昭和16年 小学校は国民学校となる。吉住国民学校は箟岳国民学校になる。
昭和22年 国民学校は小学校となり、中学校が新たに設立。(涌谷町に涌谷中、元涌谷村に元涌谷中、箟岳村に箟岳中)
昭和23年 涌谷町と元涌谷村が合併して涌谷町に。涌谷小は涌谷第一小、元涌谷小は涌谷第二小、涌谷中は涌谷第一中、元涌谷中は涌谷第二中になる。涌谷高等女学校が涌谷高等学校となる。
昭和25年 涌谷第一中と涌谷第二中が統合、涌谷中学校となる。
昭和26年 涌谷中学校の新校舎が現在地に。上郡分教所が第三小学校として独立。
昭和30年 涌谷町と箟岳村が合併して涌谷町に。小里小・箟岳小・箟岳中は涌谷町立となる。
平成4年 涌谷第三小学校が現在地へ移転。

涌谷町各学校の児童・生徒数の推移

  明治6年 最多年度(昭和) 平成16年度
馬場谷地小学校※1(第一小学校) 男250人 22年度 男751人 男254人
女28人 女768人 女260人
計278人 計1,519人 計514人
涌谷小学校(第二小学校) 男92人 34年度 男531人 男71人
女19人 女472人 女77人
計111人 計1,003人 計148人
第三小学校※2   34年度 男130人 男28人
女128人 女28人
計258人 計56人
小里小学校 男87人 34年度 男347人 男40人
女3人 女361人 女40人
計90人 計708人 計80人
箟岳小学校   33年度 男384人 男55人
女377人 女53人
計761人 計108人
小学校計 男429人     男448人
女50人 女458人
計479人 計906人
涌谷中学校   39年度 男730人 男233人
女699人 女193人
計1,429人 計426人
箟岳中学校   39年度 男359人 男62人
女339人 女67人
計668人 計129人
中学校計       男295人
女260人
計555人

※1分教所は、含まない。

※2最多年度は、35年度も同数。

3、第二の「学制」

長く続いた戦争は、昭和20年(1945)8月に終わりました。昭和21年、「日本国憲法」が制定され、「教育基本法」が翌年公布されました。憲法がうたう国民主権・平和主義・基本的人権の三大原則のもとに戦後の教育改革が行われました。「第二の学制」と呼ばれる改革では、第一に、民主的な人間の育成が理想とされ、教育の機会均等が男女共学のもとで期されました。6・3・3・4制の新学制が発足し、小中学校の義務教育は男女共学で無償となるなど、国民教育の徹底的な民主化が図られました。

第二に、教育の地方分権のため、県や市町村に教育委員会が設置されました。学校の「民間公共性」を制度的に保障するものです。また、PTAがつくられ、昭和24年には「社会教育法」も成立しました。

第三に、形式化した学力観を否定して、学校で学ぶ内容は「社会の現実生活の中で直面する諸問題を知的に解決する力を養うもの」とされ、新しく社会科などの教材が設けられました。このように、児童の「生活体験」を中心に、その自発性に基づく学習を指導する教育を当時「新教育」と呼んでいました。

そして、最大の改革は「国民の教育を受ける権利」が憲法第26条で保障されたことです。

すべての国民は、法律の定めるところにより、その教育を受ける権利を有する。

日本ではじめて、教育を受けるのは国家に対する義務ではなく、国民の権利であると公認されたのです。

教育の最善の能力は、自由の空気の中においてのみ充分現わされる。この空気を作り出すことが行政官の仕事なのであって、その反対の空気をつくることではない。子供の持つ計り知れない資質は、自由主義という日光の下においてのみ豊かな実を結ぶものである。この自由主義の光を与えることが教師の仕事なのだ。

これは、戦後の教育改革を勧告した米国教育使節団の報告書の一文です。教育は児童生徒が将来社会人としてひとり立ちして生きていく力を獲得するのを援助する営みです。児童生徒たちをどういう人間に育てようとするかは教師の基本的な課題であり、それはその教師が人生をどうとらえ、教育しているかに関わってきます。

「教育は人なり」という至言の重みが一段と感じられてなりません。

涌谷町の教育

平成16年度学校教育基本方針

教育基本法・学校教育法に基づき、宮城県教育委員会の施策に則り、涌谷町に根差した教育を推進し、健康で豊かな心を持ち、文化の創造と郷土の発展に貢献し得る町民の育成を目的とする。

学校教育目標

  1. 生涯にわたり、自ら学ぶ意欲と態度を持つ幼児・児童・生徒を育てる。
  2. 正しい判断力と思いやりのある、心豊かな幼児・児童・生徒を育てる。
  3. 健康の喜びを味わい、進んで健康増進に努める幼児・児童・生徒を育てる。
  4. 涌谷町の歴史や伝統を理解し、郷土を愛し、その発展に寄与しようとする心情と態度を持つ幼児・児童・生徒を育てる。

重点施策

  1. 特色ある幼稚園・学校の実現。(創意ある学校経営)
  2. 「分かる授業」の実践と基礎学力の向上。(学力向上)
  3. 充実した体験学習による社会認識の拡大。(豊かな経験)
  4. 学校不適応対策の推進。(教育相談の充実)
  5. 実践力向上のための校内研修の強化(専門性の高揚)

その11に続く

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