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更新日:2013年8月22日

わが町涌谷の歴史~その5:亘理氏の涌谷入部

1、亘理氏の出自

通称「涌谷伊達氏」の本姓は「亘理氏」です。江戸時代の初め、伊達氏一門として「伊達」の名乗りを許されて以来、「伊達」姓を称してきましたが、明治に入って本姓の「亘理」姓に戻しました。この「亘理」姓の由縁は何でしょうか。

亘理氏の出身は、鎌倉御家人下総国千葉介常胤(ちばのすけつねたね)の三男、武石三郎胤盛(たねもり)に始まります。

千葉氏は、桓武天皇の皇子葛原(かづらはら)親王の曾孫平良文を遠祖としています。常胤は源頼朝の挙兵、奥州藤原氏平定の際(1189)に、東海道軍総大将として軍功を上げました。その恩賞として与えられた陸奥国5郡(伊具・亘理・宇多・行方・磐城)のうちから亘理・宇多2郡が三男武石胤盛に分与されました。

武石氏は、本領下総国にいて陸奥国亘理郡、宇多郡の郡地頭として支配していましたが、鎌倉時代後期の乾元元年(1302)、第4代宗胤が亘理郡に下向しました。

武石氏が「武石」を改め、「亘理」を称するようになったのは、永徳元年(1381)、伊達宗遠と刈田郡で戦った武石氏第8代行胤が「亘理彦四郎」を名乗っていたとか、「涌谷町史」では同7代広胤が「亘理」を称したとあることなどから、14世紀後半、南北朝の頃と考えられます。

2、亘理氏と伊達氏

亘理氏と伊達氏の関わりは、伊達氏が勢力を増大してくる南北朝の頃からと考えられています。そもそも伊達氏も亘理氏と同様の鎌倉御家人で、常陸国より陸奥国伊達郡に移り住み、「伊達」姓を名乗りました。南北朝期に伊達郡、信夫郡を基盤に地歩を固め、伊具郡、刈田郡に進出、亘理氏と争いました。

亘理氏は、前述の行胤が伊達宗遠に敗れた時から、その支配に属しています。伊達氏が奥州探題大崎氏と対抗して北方へ勢力を拡大している間、伊達氏に与力する小大名として、海道筋の相馬氏への抑えとなりました。

亘理氏第16代宗隆は後嗣がなく、宗隆女が伊達稙宗(たねむね)との間に産んだ綱宗、ついで元宗を継嗣としました。この元宗(元安斎)が、やがて涌谷伊達氏の祖となります。

戦国時代になると、亘理氏と伊達氏の関係はいっそう緊密になりました。伊達氏「天文の乱」(天文11~17年)では稙宗方に与しました。元亀元年(1570)には、宿老中野宗時と牧野久仲の謀反に出兵し、中野・牧野を相馬氏に奔らせる戦功を上げ、「竹ニ雀」の家紋を許されます。

天正2年には、亘理重宗が最上氏攻略に出陣、和睦の交渉には伊達氏を代表するなど重きを成していました。

伊達家家紋

伊達輝宗・政宗の相馬氏攻め(天正4・11・12・17年)には、いつも手先を務め、伊具郡や宇多郡の諸城攻略に活躍しました。また、天平6年(1578)の輝宗の越後出兵、天正16年の政宗の石川弾正討伐、天正17年の会津蘆名(あしな)氏攻め、天正18年の小田原参陣など、いずれの場合も

「相馬ヘノ備ヘ」

「其ノ方ノ事ハ境目タルニ困リ其義(出兵)ナシ、丸森、金山、小斎、亘理油断ナキ(つくろ)イ肝要ナリ」(『治家記録』)

と命ぜられ、伊達氏の背後を守りぬいたのです。伊達政宗が小田原参陣しているときでさえも隙を狙う相馬氏は、宇多郡駒嶺城に攻めてきました。亘理元安斎元宗と重宗父子は敵数百人を討ち取り、相馬氏を撃退したということです。

3、涌谷入部

涌谷要害跡

さて、亘理氏入部以前の涌谷はどうなっていたのでしょうか。

涌谷は、14世紀半ば、足利尊氏より「奥州管領」に任ぜられた斯波家兼(しばいえかね)(大崎氏祖)の支配下になります。15世紀半ば、大崎氏第5代満持の弟高栓が百々(どど)家をおこし、高栓の次男直信が涌谷城に拠って涌谷氏を立てたとのことです(『涌谷町史』)。天正18年7月、小田原北条氏を滅ぼした豊臣秀吉は、8月に会津黒川城において「奥州仕置」を行いました。この処置により陸奥・出羽2国の大名は大幅に改編され、大崎・葛西の2氏と同時に涌谷氏や百々家も滅びました。跡地には秀吉の腹臣木村吉清が入りましたが、入部直後から大崎氏や葛西氏の旧家臣が一揆を起こします。北は胆沢郡から栗原・登米・桃生・深谷などの各地に拡大し、木村吉清は佐沼城に閉じ込められる事態となりました。そこで蒲生氏郷とともに一揆の鎮圧を命じられた伊達政宗が米沢から駆けつけて、ようやく救出するという有様でした。一揆を疑われた政宗でしたが、辛うじて疑いを晴らしました。しかし本領米沢の地を取り上げられ、一揆残党の潜む大崎・葛西の旧領に転封されました(天正19年)。

政宗は徳川家康が修理した岩出山城に入るとともに、家臣にも転封を命じました。亘理氏も遠田郡百々城を与えられて亘理から移りましたが、移転直後に地の利のよい涌谷城に移りました。亘理重宗は落ち着く間もなく、翌文禄元年(1592)1月、秀吉の朝鮮出兵の命令を受けた伊達正宗に従い涌谷を出発します。京都、肥前名護屋を経て、文禄2年3月に朝鮮へ渡海し、約半年で帰国します。文禄4年には、政宗が関白豊臣秀次謀反の疑いに連座して、三度秀吉の召喚を受け、重宗も京都へつめることとなりました。

家臣連判の誓詞を提出して赦されましたが、秀吉の死(慶長3年)、関ケ原の戦い(慶長5年、1600)までは伊達氏一統、席の温まる暇もありませんでした。

4、涌谷城下の建設

亘理氏は伊達氏一門として大きな働きをしました。関ヶ原の戦い直前、石田三成と結ぶ米沢の上杉景勝の出城、刈田郡白石城を攻略します。慶長19年(1614)と元和元年(1615)には「大阪の役」、元和8年には、最上氏改易の城請け取りに名代として伊達成実とともに山形へ、などと続きました。

また、亘理定宗は、慶長11年(1606)伊達政宗の長女五郎八(いろは)姫の婚礼のとき、「亘理」姓を改め、「伊達」姓を名乗ることを許されました。

天正19年に涌谷に入った亘理氏が、涌谷の城下建設をどのように進めたのかは、記録がほとんど残っていません。

しかし、『涌谷町史』には慶長10年に「本町」が開発されたとあるので、涌谷城とその城下も平行して建設されたと考えられます。15年近い歳月がかかっていますが、都市計画の基本構想は当初から出来上がっていたのでしょう。

伊達要害図

大橋と追手門を中心に、江合川を挟んで重臣の屋敷、城の周辺の一の郭、二の郭に上級家臣を配し、宿駅、街道として「本町」がいち早く開かれ、それに連なる川原町、新町も後年開発することを想定した町割りを作ったと考えられます。また、各丁、小路は直線的に大堀、小堀の水路で区画されているので、これらの土木工事も事前に計画が立てられていたものでしょう。

時代は下りますが、天平8年(1659)の『涌谷藩士名簿全』記載の家臣のうち、「御一家」以下、「御呼懸」以上の上級家臣81家(全体の6.8%)が表丁、日向丁、下丁、追廻丁、刈萱丁、立丁、練丑丁、田沼丁に集中しています。

御小姓、御徒組、後不断組、御足軽組は領内全域に配置されています。

商人町の町場は、前述の本町・川原町・新町の3町で、ほかはすべて侍屋敷の「丁」になっています。

現在ではすべて「町」になっていますが歴史的には3町のみ「町」で他は「丁」で表示します。

最後に、亘理氏(涌谷伊達氏)の知行高の変遷を見てみましょう。

天正19年に遠田郡に知行替えになったときは、8850石、元和元年には野谷内も含め1万石。

寛永21年(1644)に2万石、万治2年(1659)に2万2千6百余石となり、以後明治まで変わりませんでした。

その6に続く

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