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更新日:2013年8月22日

わが町涌谷の歴史~その11:新しい涌谷に向けて

1、新旧住民のふれあいのなかで

涌谷の歴史は、「新しい住民がやってきて、旧来の住民と触れあうなかで不思議な活力が生み出される。

しばらくすると、また新しい住民がやってきて、活力が更新される」という繰り返しでした。

それが、教えていただいたことの基本です。

たとえば奈良時代、霊亀から養老年間(715~723)、小田郡が建てられる際には上総国埴生郡小田郡(今の千葉県内)の人びとが移民として送り込まれてきました。蝦夷と呼ばれる旧来の住民のなかには、反乱を起こし、または強制移住させられた人びとがありました。しかし、対立抗争がすべてだったとは考えられません。

風土に密着した旧住民の暮らしに学ばなければ、新住民による暮らしは成り立ち難かったに違いありません。

天平21年(749)における金の発見はこれまでにない規模の人々呼び寄せて、一大ゴールドラッシュを現出することになりました。指揮監督に当たる国府の役人から、砂金洗い取りの作業に従う労働者まで、大勢の人びとがやってきました。黄金山神社と六角円堂(仏堂)は、彼らの流入を契機に形成された新しい地域文化の象徴だったのです。

平泉藤原氏の時代には、たくさんの荘園や保が建てられ、旧来の郡が再編成されることになりました。その中で、小田郡は小田保に切り替えられて、荘園に準じた独立行政区の扱いになりました。地域の開発が急ピッチで進められていた反映でしょうか。

平泉藤原氏が滅亡して鎌倉時代に入ると、関東御家人が大挙して入来し、地頭として荘園・保・郡に君臨することになりました。小田保の場合には、武蔵国御家人豊島氏が入来して、旧来の保氏による取り仕切りを継承したことが明らかにされています。それに伴って、板碑(石塔婆)に象徴される鎌倉文化が導入されることになりました。その後、豊島氏に代わってさまざまな武士が入来したことも明らかにされています。室町・戦国期には大崎氏の一族、百々氏や涌谷氏が地域の取り仕切りに当たっています。

2、新旧住民のふれあいのなかで(続)

そして、いよいよ亘理「軍団」の入来です。伊達正宗の命令によって、仙南亘理から、大勢の武士団がやってきたのです。それにともなって、城と町の建設が急ピッチで進められることになりました。そして、本町・川原町・新町には商人が住み着いて、活発な営業活動を展開することになりました。

かれら新来の武士団と商人たちは、農民を主体とする旧来の住民から見れば、進駐軍のような異質な存在でした。しかし、長期的に見れば、新旧の住民が触れあうなかで、違和感が解消され、新しい地域文化が醸成されることになりました。

その新しい地域文化が、江戸時代はもちろん、近代・現代に至るまで、近隣に類を見ない「涌谷の活力」を生み出す根本の土台としての役割を果たすことになります。

近代・現代に入っても、新しい住民の入来は絶えることなく、新旧住民の交流が継続されることになりました。

郡役所・地方事務所ほかの官公署、隆盛を誇った製糸工場、最近開設の大規模電子関連事業所など、数多くの施設に関連する人びとが入来し、世界の情報をもたらし、旧住民との間に、ホットな交流を形づくってきました。

それによって、新しい活力を生み出してきました。

3、世界に開かれた地域の特性を活かして

古くは上総国の移民、武蔵国の御家人など、関東方面から入来の新住民によって、新しい文化がもたらされました。その上に、金の産出によって奈良の都、さらには百済方面まで及ぶ広範囲な世界に関する情報がもたらされました。

江戸時代には、仙台・江戸方面との往来が盛んになり、近隣に類を見ない情報の集積地として、涌谷の名が轟くことになり、学問所「月将館」に、天下の知識人が寄りつどうことにもなりました。

商業・物流の方面でも負けてはいません。「川端」に繋がれた艜船には、江戸向けの米穀が満載されていました。

その水運のルートを逆に辿って、大量の情報が入ってきました。

近年には養蚕・製糸業が盛んになり、横浜港を通じた販路を逆に辿って、欧米の情報がダイレクトに入ってきました。そのうえに、「月将館」以来の伝統を踏まえ、高い教育レベルが保持され、大勢の知識人が生み出され、内外の文化向上に寄与することができました。ハリスト教会ほかが設立されたのも、そのような精神的風土と無縁ではありません。

また、箟峯寺観音堂に対する古来の農業信仰が近代にまで生き続け、大勢の参詣客を集め続けました。

それによって、箟岳は広域的な場における一大文化センターとして、情報の集散地としての役割を果たしました。

最近では、自動車による交通が主流となり、人間活動の範囲が急速に拡大されたために、商業・物流センターとしての涌谷の地位は失われてしまったかに見えます。

しかし、自動車交通の手段だけが、すべてを決するというわけではありません。情報は、それを積極的に受け入れるという「開かれた」「進取」の姿勢が無ければ、決してわがものとして活用することができません。涌谷には、その「開かれた」「進取」の姿勢が、新旧住民のふれあいの重なりの中で、歴史的に形成され、保持されているのです。その気になれば、インターネットでも何でも、手段には事欠きません。世界に開かれた地域の特性を、資源として活かしきることができさえすれば、涌谷が誇る医療・福祉の町づくりを推進し、「健康とふれあいの黄金郷」を実現することは、決して夢ではありません。

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