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更新日:2013年8月22日

わが町涌谷の歴史~その9:戊辰戦争と明治維新

1、戊辰戦争前史

戊辰戦争がおこる15年前の嘉永6年(1853)、ペリー提督率いるアメリカ艦隊が江戸湾入口の浦賀沖に現れました。

その時から、日本国内は開国和親の幕府とそれに反対する尊王攘夷の長州藩・薩摩藩などとの対立が激化していきました。

仙台藩でも、奉行但木土佐の開国佐幕派と、宿老遠藤文七郎、中島虎之助らの尊王攘夷派が対立していましたが、文久3年(1863)正月、藩主伊達慶邦は藩上層部の尊王攘夷派を閉門・蟄居の処分で一掃しました。

そのころ涌谷では、出入司三好監物や近習安田竹乃輔(吉住に在郷屋敷)と親しく、奉行但木土佐の信任もあった十文字龍介(栗軒)が開国派の中心となっていました。また当時、江戸に遊学していた首藤与助、長崎など西国を遊歴していた桜井文二郎ほかの諸士からは、朝廷や幕府、薩長など西南諸藩の動向が逐一涌谷に報告されていました。そのため、涌谷家中の間では、江戸や京都の情勢が的確に把握され、尊王論があったようです。

しかし、涌谷は仙台藩一門として尊王論を突出させるわけにもゆかず、藩執行部に同調していたのでした。

2、戊辰戦争

戊辰戦争戦没者招魂碑

慶応4年(1868)正月、薩長軍は京都南郊の鳥羽・伏見で旧幕府に対して発砲、これが戊辰戦争の始まりです。

薩長軍は徳川慶喜追討令を得て軍を進発。東北地方へは、3月に奥州鎮撫使(総督九条道孝)が仙台入りし、参謀の世良修蔵(長州出身)は仙台藩に対して会津出兵を督促してきたのです。

4月、仙台藩ではやむなく出兵、藩主自ら白石に本陣をおきました。涌谷伊達氏も、亘理此面以下千百余名が出陣、安積から猪苗代へ超える中山口に向かいました。閏4月には仙台藩と米沢藩を中心とした奥羽列藩同盟の結成促進、世良修蔵の殺害などがあったなかで、涌谷勢は5月2日に涌谷に帰りました。

5月3日、奥羽25藩が奥羽列強同盟に調印、のちに北越6藩が加わり、奥羽列藩同盟として、以後は会津藩を扶け、薩長軍に対抗することになります。

4月に江戸城を開城させた薩長軍は会津に向かって進撃、5月に白河城をめぐる攻防戦が開始されました。

涌谷勢は再び出兵、薩長軍との本格的な戦闘となりました。薩長軍は板垣退助率いる土佐藩兵が合流して増強したため、白河城を包囲している同盟軍は彼らに総攻撃を繰り返しても戦果を得られず、多大な犠牲を出しました。

同盟軍の劣勢が続く7月、涌谷勢も退去を余儀なくされました。

秋田口の戦いでは、仙台を脱出した奥羽鎮撫使が盛岡を経て秋田に入り、秋田藩・新庄藩を味方につけて同盟軍に対抗させました。

7月、涌谷勢は8小隊が秋田領内に攻め入りました。横手城を落とし大曲へ向かう途中、秋田藩の奇襲に遭い、小隊長米谷周蔵ほか3名の犠牲者がでました。しかしその後も進撃を続け、雄物川沿いに秋田に向かう一隊と、角館を攻撃する一隊とに分かれて戦いました。涌谷勢は角館攻撃に加わり、西軍・秋田軍を攻めたてました。

しかし、9月16日、藩からの撤退命令により、退却。涌谷勢は佐沼勢などとともに晩秋の栗駒山を徹夜で超えて9月24日に帰国、仙台藩の戊辰戦争は終息したのです。

3、明治維新

明治新政府は、西欧列強の進出に対抗すべく、「富国強兵」「殖産興業」の推進を急ぎました。身分制度を士農工商から華族・士族・平民と改め、住民移転・職業選択を自由にし、廃刀令・断髪令を発し、太陰暦を廃して太陽暦を採用するなど、文明開化にも努めました。

中央政府の組織も試行錯誤を繰り返しましたが、地方制度も同様でした。明治元年(1868)、仙台藩は28万石となり、遠田郡は登米郡・志田郡の一部とともに土浦藩の取り締まり地となりました。翌年3月に「涌谷県」、8月には「登米県」と改称し、県役所は涌谷要害屋敷(現城山公園)に置かれました。

明治4年7月、廃藩置県が断行され、遠田・志田・桃生・牡鹿の4郡は「仙台県」へ、登米・栗原・本吉3郡は「一関県」へ編入されました。明治5年(1872)、仙台県は「宮城県」と改称、現在の宮城県が定まったのは明治9年のことです。

明治5年、政府は地方をより緊密に中央に結びつけるために、各府県内を「大区・小区制」としました。宮城県は、19大区と230小区(明治7年には10大区、117小区)に分けられ、遠田郡は北方を第8大区、南方を第9大区とされ、各地域は次のように称しました。

小里・太田・吉住村

第8大区第10小区

猪岡短台・小塚・成沢・涌谷・下郡・上郡・北小牛田村

第9大区第1小区

馬場谷地村・(現西地区)

第9大区第2小区

明治11年、「郡区町村編成法」により、大区・小区制を廃止し、「遠田郡役所」(初代郡長鈴木淳之進)が設けられ、旧村名が復活、村長の公選が実施されました。

なお、町村の再編により下表のようになったのは、明治21年(翌年施行)の市制町村制法によります。

明治21年の市町村再編

馬場谷地村

涌谷町

涌谷村・上郡村・下郡村・小塚村

元涌谷村

小里村・成沢村・太田村・吉住村・

猪岡短台村・箟岳村(箟峯寺領)

箟岳村

明治12年、第一回宮城県議会が開催し、遠田郡からは大立目才次郎、入間田虎次郎、松岡修の3名が選出されました。また、同年には各村で第一回村会議員選挙と村会が開かれました。なお、選挙権は20才以上の男子で地租10円以上納める者にありました。

「富国強兵」の方針により、明治4~6年に「新貨条例」「国立銀行条例」「郵便制度」「学制」「徴兵制」「地租改正条例」など日本近代化・西欧化の礎となる法律や制度が矢継ぎ早に公布されました。

中でも、日本近代化にとって、特に重視されたのが教育です。明治5年、「学制」が公布され、翌年、小里、涌谷、馬場谷地に各小学校が開校しました。

これら小学校の設立・運営には各村々の財政支援のほかに篤志家の寄付、保護者からの授業料に依らなければなりませんでした。そのため就学率も低く、涌谷村で9.3%、馬場谷地村で4.7%でした。(明治11年調べ)

「殖産興業」では、従来の農業のほか、輸出産業として養蚕業・製糸業が奨励されました。「養蚕仕方書」が配布(明治3年)、「養蚕培桑を勧奨する告論」(同6年)、「養蚕殖桑方法」(同7年)などが出され、養蚕業の技術向上と普及・発展に懸命であったことが分かります。明治20年、小牛田農林学校の前身とも言うべき遠田郡立養蚕伝習所が海上静の熱意で馬場谷地村に設立されました。やがて涌谷をはじめ、各地に製糸会社が設立され、涌谷も繭の集荷と製糸業の一大中心地になって行きました。

つぎに政府は、公金、税金、貢米などを取り扱う機関として旧両替商の三井組、島田組、小野組を認可しました。

また、石巻に民部省通商司の出張所を開設、三陸商社が取扱いの認可を受けています。

明治6年設立の国立第一銀行は仙台・石巻に支店を、古川・築館・涌谷などに出張所を開設しました。同11年に宮城県の士族が出資して設立した国立第七十七銀行は、遠田郡役所内に出張所を開設、宮城県の公金を取扱い、西欧式の金融制度が少しずつ形成されていきます。

このようにして旧幕府の体制から明治新政府の指導する新体制へと、人々の戸惑いを他所に、急激な転換が進められたのが明治維新であったのです。

その10に続く

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