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更新日:2013年8月22日

わが町涌谷の歴史~その7:涌谷宿の繁栄

1、仙台藩交通網の成立

伊達政宗は、慶長5年(1600)、千代(せんだい)城の「縄張始め」を行い、本格的な仙台藩領の経営に着手しました。

そのため、領内統治や物資輸送の必要から交通・通信網の整備も急ぎました。慶長6年、登米から高清水・宮沢・岩出山を経て国分(仙台市木下)に至る宿駅(しゅくえき)に「伝馬5疋」ずつ用意するように命じ、慶長15年には白石から仙台までの宿駅に、同17年、気仙郡に至る「気仙道」の各駅に伝馬役(公用で次の駅まで人や荷物を運ぶ役割)を命じています。涌谷駅も本町に伝馬役をもって「町場」が開かれたのは慶長10年ということです。

また、領内要地に配置した家臣の館下には、町場・宿駅が形成されました。政宗は商工業者を集めて「伝馬」の維持と、館主やその家臣、または周辺農村(在郷)の農民の日用品の供給を担わせました。絹・木綿・古着など衣類、小間物、薬種、米、塩の問屋、五十集(いさば)問屋、刀鍛冶、染色などの職人たちが町を形成しました。商工業者は、藩や地域の領主の営業免許(御判)を得て営業活動を行いました。

たとえば

  • 上判取商人・・・仙台藩全域及び領外
  • 中判取商人・・・・数郡の範囲
  • 下判取商人・・・・郡内のみ
  • 下々判取商人・・・村内のみ

と営業を許可されていました。

こうしてつくられた仙台藩の交通網は、慶長~元和期(1596~1623)に整備され、寛永末年(1643)にはほぼ出来上がっていたようです。

2、涌谷宿

川端

「遠田郡涌谷館井館下絵図」(県図書館所蔵、推定享保2年)には、涌谷宿は本町を中心に新町、川原町とあります。川原町を江合川に突き当たった上手には、涌谷宿の物資輸送の拠点「川端」(通称「かばた」)河岸があり、石巻と往来する川船(艜船)(ひらたぶね)が発着し、昭和初期まで機能していたそうです。

涌谷宿は、間口6間の屋敷特に伝馬役が課せられ、江戸時代中期には本町65軒、新町36軒、川原町24軒が町役負担の対象となりました。

 

各町は

  • 本町
    • 伝馬(8~20日)
    • 賃馬・飛脚・歩夫
  • 新町
    • 伝馬(21~31日)
    • 仙台御供
    • 40里以上の遠飛脚
  • 川原町
    • 伝馬(1~7日)
    • 御仏参御供(ごぶっさんおとも)
    • 御野方御供(おのがたおとも)

という分担だったようです。

なお、涌谷宿は馬場谷地村の一角に設定された宿駅・町場ということで、町場の住民も百姓身分の扱いになっています。仙台藩内の町場・宿駅はみな在郷扱いで、住民は指定された区域で伝馬諸役を負担しながら商工業の営業を許された百姓身分の人々なのです。こうした人々は、伝馬諸役を負担する代わりに年貢諸役は免除されていました。

また、涌谷宿では「古来より六才(斎)之市日相立候処」とあって月6回の市日が立ちました。そのうち、新町は4日と19日に米と五十集、諸産物の二斎市が、川原町は小荷駄市(馬市)が立ちました。天保年間の「花井日記」には決まって4か9の日に、もしくは翌日に米相場の記載があり、米市が4か9の日に開かれていたことが分かります。

涌谷は米の集散地として賑わっていたのでしょう。

3、涌谷宿の商人たち

江戸時代の涌谷宿はどのように栄えていたのでしょうか。残念ながら当時の経営状態を示す帳簿、証文などの資料が全く伝わらず、推測するしかありません。系図や墓碑などで古い家だと分かっても、営業内容はほとんど不明です。しかし何人かの商人については分かっていることもあります。

長崎屋賢親

賢親(よしちか)は下本町の旧「桜井食料品店」の地で昭和17年、長崎宥五郎氏が亡くなるまで営んでいた「長崎薬局」の6代目にあたる人です。彼は薬用書「賢親本草」32冊(東北大学付属図書館所蔵)を遺しました。

本書は寛政2年(1790)からの14年間に大部分が書き上げられ、その後同家に埋もれていました。

内容は薬用となる植物・動物・鉱物の薬効・製法・用途などよりも、博学的な考証が中心となっているのが特徴です。それというのも賢親は何らかの縁故で、江戸時代を代表する本草学者小野蘭山に教えを受けたらしく、「賢親本草」は、原稿を京都に送り、蘭山の添削を受け完成しているからです。

長崎屋では自家製の薬5種類(女寶散(じょほうさん)・芳香水・精欣水・開明膏・明生治(あかりしょうじ))を製造販売していましたが、製法は門外不出の口伝であったため、宥五郎氏の死と共に消滅してしまいました。

山本屋甚兵衛

享保6年(1721)、涌谷本町山本屋甚兵衛は小牛田宿門田屋平次右衛門に宛てて借金返済の証文を出しています。

門田屋から米300石(600俵)を買い入れた山本屋が、未納代金106切(26両2分に相当)を返済すると確約した証文です。甚兵衛は、300石もの大量の米をどう売りさばいたのでしょうか?大消費地の江戸へでも送らないかぎり処分できそうにない分量です。おそらく仙台藩の買米制ルートに乗せて江戸廻米に取り組んでいたものと思われます。

この一枚の証文から、18世紀初め頃に、涌谷宿には大きな米穀流通の拠点があったことが分かります。

山本屋の関連で、妙見宮の参道の石盥(いしだらい)(年不詳)の奉納者に「山本屋次郎兵衛、山本屋久兵衛、山本屋久介、黒沢屋定右衛門、大谷屋惣右衛門、田中屋金兵衛、田中屋徳右衛門」が名を連ねています。

久道魯因

久道保兵衛(魯因)は、仙台を代表する俳人遠藤曰人(あつじん)の高弟らしく、自身の句集「四季句集」の料紙に師匠曰人の「清湖庵」の号入りのものを用いています。千句余りを収める「四季句集」のなかに、天保7年秋、天保の飢饉の迫るなか「公ヨリ羽州庄内へ米買いにまかる」ということで庄内鶴岡までの道々に詠んだ句を織り込んだ紀行文があります。家業が米問屋であったため命ぜられたのではないかと思います。

魯因は、光明院門前に

せみなくや

ほやりほやりと

田のにほひ

の句碑が立つ旧久保旅館の初代です。

伊藤屋喜惣兵衛

見龍寺裏「涌谷伊達氏お子様廟」下に、文政2年(1819)、夫婦で京都見物をしての帰り道、信州高遠で病死した伊東屋喜惣兵衛の墓があります。涌谷にも夫婦で京都見物に出かけた庶民がいたということは驚きです。

ほかにも京都や伊勢参りに出かけた人がどれぐらいいたのか、庶民の旅行も一般的になったといっても京都見物が出来たのはよほどの大店のご隠居だったのでしょう。

その他にも

妙見宮には岩井屋正左衛門、我妻惣五郎、横山屋夘左衛門、内海屋正兵衛の名を連ねた文化7年(1810)に奉納された鉄製(常夜燈)、長床前の寛政2年(1790)奉納の石燈篭には當麻屋庄七、我妻屋正八の名があります。

光明院

さらに現在は涌谷神社にありますが、本来妙見宮にあるべき涌谷宿獅子舞連中が奉納した「古代獅子舞」絵馬があります。光明院山門前には長柄丁出放れの長渕から移した天明の飢饉供養碑(寛政2年-7回忌、文化3年-23回忌、文化13年-33回忌)には吾妻惣五郎、櫻井屋五郎七が功徳主、供養導師は光明院住職とあります。

また、本町小関屋喜内が建立した供養碑もあります。これらの事例は具体的に涌谷宿の商人の営業活動を示していませんが、彼らの経済力の底力を表しているものと筆者は考えます。

その8に続く

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