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更新日:2016年5月12日
「伊達騒動」は、広く「谷地争い」の如く思われていますが、それは伊達安芸宗重の本意ではありません。
伊達安芸は、早くから伊達兵部の後見政治に危惧の念を抱いていました。
寛文9年(1669年)二郷谷地分割に、伊達兵部一派の検地役人の依估、不公正を見ました。
安芸は、それを証拠に兵部らの秕政を糺すべく訴え出ました。
安芸の訴えは幕府にまで届き、その審問は寛文11年(1671年)2月から3月末まで続きました。
3月27日の午後、大老酒井雅楽頭邸での審問中「刃傷」は起こりました。
奉行原田甲斐が突然伊達安芸に斬り掛かったのです。
伊達安芸は、死を覚悟して涌谷を出発していました。
円同寺(現見龍寺)住職石水玄劫に法号を乞い、「見龍院殿徳翁収澤大居士」を授けられました。
安芸の遺骸は翌日荼毘に付され、遺骨となって四月十五日涌谷に帰り、同十九日に葬儀が執り行われました。
「見龍院御霊屋」は寛文12年(1672年)8月着工、翌13年(1673年)9月7日棟上げされました。
方二間、欅材の素木造、屋根は宝珠を載せる宝形造、内部は敷石式の禅宗様です。
廟前の石造五重塔、水盤は同年3月27日の三回忌を期して造営されました。
平成24年(2012年)7月、五重塔第三層より安芸の遺灰が発見されました。
(櫻井伸孝)
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