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更新日:2020年9月2日

「涌谷と大相撲」(一)

江戸時代中期に活躍した第三代横綱「丸山権太左衛門」(登米市米山出身)から数えて県内五人目の横綱と目された力士に、町内六軒丁出身の「駒ヶ嶽國力」がいました。明治三一年(一八九八)十八歳で初土俵を踏むや順調に大関まで駆け上がり、横綱昇進時には止め名の「谷風」襲名との話があったほどの人気の実力者でしたが、惜しむらくは三三歳現役で急逝しました。紛れも無く涌谷の歴史上で全国に名の知れた「武」の代表者と言えるでしょう。駒ヶ嶽

「千石五郎日誌」によれば、明治二三年~四十年の間に十三度も城山城址で大相撲興行が催され、駒ヶ嶽も郷土入りした明治三五年興行では「朝ノ雨模様ニモ拘ハラス三千五六百ノ大入ナリ」とその大盛況ぶりが窺われます。昭和十年には川原町出身の「伊達の花」が二人目の関取として入幕を果たしました。興行は戦後も続き昭和三十年代まで、第二小学校校庭を主に幾度となくありました。涌谷と大相撲との関わりは少なく有りません。城下町涌谷の気風と相容れるものがあり、それを受け入れるだけの地力があったということでしょう。ただ残念ながら以後涌谷出身の関取や、県内をみても大関や横綱は出ていません。

時代とともに町内の小学校の校庭や勤労福祉センターからも土俵が消え、今や彼等を知る人も少なくなりました。駒ヶ嶽は仙台市の西公園や清浄院の本堂で、伊達の花は光明院のお墓で知りえるほどです。去る六月八日付河北新報で『気品漂う悲運の名大関』として駒ヶ嶽の偉業が大きく紹介されました。駒ヶ嶽没後百余年、涌谷が生んだ大豪大関や伊達の花の名をを末永く心に刻んでおきたいものです。

写真は「駒ケ嶽の雄姿」

(文化財保護委員:阿部直文)

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