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更新日:2021年3月31日

涌谷と大相撲(二)

昭和三十年代初め、男の子供達の代表的な遊びに、チャンバラやメンコと並び相撲等があり、町内の野原や空き地でもちびっ子相撲が盛んでした。テレビの普及とともに「栃若ブーム」が到来しますが、当時スポーツ中継といえば、他にプロ野球ぐらいのもので、他の競技の放映はほとんどありませんでした。大相撲と国民の距離がごく近く、民放でも大相撲の実況中継があったほどです。敗戦後十年余り、まだ豊かな時代とは程遠く、相撲協会の運営も地方での興行に頼らざるをえませんでした。「鍛錬場所」とも言われる巡業は、PR伊達の花の墓を兼ねた顔見世興行的な面もありましたが、力士にとっては恵まれた環境の中猛稽古で力をつける絶好の機会でもありました。

昭和二十年代に続き三一年の巡業には、看板力士の「千代の山」、「栃錦」の両横綱を従えて「出羽の海一門」一行が来涌し、最後の巡業となった三四年は、一門毎から「大合併巡業」に変わった為、街中の宿屋以外に民家への分散宿泊になるほどの大所帯でした。町民は涌谷駅からぞろぞろと歩く桁外れの体躯の集団に驚愕し、翌日には第二小学校の土俵で繰り広げられた力士の一挙手一投足に熱狂しました。たまたま我が家にも元大関の「松登」を預かることになりましたが、覚えているのは、家にとてつもなく多くの人々が押し寄せ大混乱だったことと、翌早朝、四人の付け人達による庭での「山稽古」の激しさでした。転がされては起き、起きては転がされるぶつかり稽古の迫力に子供ながらも身が引き締まる思いでした。

平成、令和と時を経て社会とともに大相撲も変わりましたが、奉納相撲、神事相撲からの謙虚な礼節と簡素な形式美は引き継がれ今に到っています。涌谷のみならず県内からも関取の姿が消えて久しくなります。

「江戸の大関よりも土地の三段目」、テレビで関取以下の取り組みも観られる今日、「駒ヶ嶽」や「伊達の花」に続く郷土力士の出現を一日千秋の思いで待っている人は少なくありません。

(文化財保護委員:阿部直文)

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