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更新日:2016年5月12日

彌右エ門の手鞠歌(聞き書き)

手まり歌挿絵

正月のこの季節、曾ては羽子突きや凧揚げ・手鞠など子ども達の遊びが見られました。

昭和三十一年の涌谷郷土芸能祭に涌谷能・お茶屋節などと共に「彌右エ門の手鞠歌」が紹介されてます。

資料に「涌谷地方に古来手鞠歌として、藤原清衡の母の運命を綴った歌が伝わっている云々」とあり「彌右エ門々多けれど 横座の彌右エ門中娘 年は十六 名はおるし あまり器量の良いままに 亘理権太にもろわれて 金襴緞子は七重ね‥以下略」の歌が残されています。歌の中のおるしとは平安時代の陸奥の豪族安倍頼時の娘を指し、亘理地方の豪族藤原経清(亘理権大夫)の妻のことです。

経清は前九年の役(一〇五一~六二年)で厨川の戦いに敗れ、鎮守府将軍源頼義に斬首されます。経清の妻は敵将清原武貞に再嫁しますが、その七歳の連れ子が後三年の役(一〇八三~八七年)を経て、平泉藤原氏の初代となる藤原清衡です。入間田宣夫氏は著書で、鎌倉時代の『吾妻鏡』に安倍頼時の娘としてそれぞれ、有、中、一の文字に「一乃末陪」(一の前)の敬称を付けた三人の女性が登場しているが、清衡の母が有だったのか、中なのか、一だったかいずれとも決しがたいとしています。

涌谷の手鞠歌ではおるしと転訛した呼び名になってますが、各地の類似歌にもおるす・おるせなど似た名前や歌詞が多いようです。

柳田国男の伝承童謡の調査『分類児童語彙』によれば、娘たちが面白い言葉を聞いて声高く口ずさむ口遊びの中で、嫁入りの歌などが土地風土により名前や順序が変化し、手鞠歌など別な歌に生まれ変わり、善し悪しは別にして少女が成人女性に移る機縁にもなったと考証されています。

手鞠歌等の口頭伝承は記録が残りません。東北学院大学七海雅人教授も、宮城県北での平泉藤原氏の伝承の広がりと、近世になり亘理氏(平姓千葉氏一族=涌谷伊達氏)が涌谷に入部するという事情により江戸~明治期にこの手鞠歌の原形が出来た可能性を示されており「彌右エ門の手鞠歌」の成立時期はそう古くは遡らないと考えられます。

ともあれ黄金に彩られた平泉文化を花開かせた藤原清衡の母に関わる手鞠歌が涌谷地方に伝承流布していたことは大変に興味深いものがあると思います。

歌の伝承伝播についてはなお先学諸氏のご教示を賜りたいものです。

(涌谷町文化財保護委員:本郷和郎)

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