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更新日:2022年1月19日
二〇二〇年には伊達安芸宗重公三五〇年遠忌が計画されています。
さて、宗重公を祀る涌谷神社は明治七年(一八七四)十二月教部省の認可により「村社」として創建されました。しかし、黄金山神社(県社)に比べて社格が低いとして、翌明治八年六月祭神の神号を「赤心猛雄之命(まごころたけをのみこと)」と称して「村社」から「郷社」への格上げを願い出ました。
「社格」とは明治四年五月太政官布告で全国の神社に格式を付けたもので、大・中・小の官幣社、別格官幣社、大・中・小の国幣社、府・県・郷・村社、無格式社とに分けたものです。当然日本国憲法公布に伴い廃止されました。
昇格の願書は宮城県を経て教部省に上申されたのですが、その願いは仲々聞き届けられず、明治九年十一月宮城県を通じて「再伺い」を差し出しました。同年十二月二十三日附の回答で、社格の昇格は認められず「村社ニ列スベシ」ということでした。こうして「涌谷神社」は明治十年四月二十八日旧館址中央部に社殿が創建されて名実ともに発足したのです。
なお、寡聞ながら明治初期に宮城県内で個人を神格化して祀られた人物は、伊達政宗(仙台、青葉神社)と伊達安芸宗重公のほかに何人いるのでしょうか。
本「願書」類は、日向町永瀬康一氏が宮城県公文書館でコピーされたものです。
注:現在の位置には大正十一年に移りました。
(涌谷町文化財保護委員長:櫻井伸孝)
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