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更新日:2020年6月30日

伊達安芸宗重公余話

涌谷伊達家は仙台藩の一門の重臣です。その四代目邑主宗重は寛文事件の功労者としてつとに有名ですが、彼が涌谷伊達家三代定宗の次男であったことは案外知られていません。四代目は当初長子の宗実が継ぐことになっており、宗重はすでに仙台藩の直轄地であった現在の多賀城市八幡地区の天童家の婿養子になっていました。ところが長子宗実が二十九歳で亡くなったため、急きょ天童家から呼び戻された宗重が涌谷伊達家の四代目を継ぐことになったのです。また伊達政宗の息女であった宗実夫人は夫同様二十一歳で早逝しています。

この二人の墓は見龍寺の裏手の高台にあるお子様御廟に並んで建っており、宗実の位牌は美里町荻埣の谷陽院、夫人の位牌は町内上町の清浄院に収められており、共に見龍寺の末寺になっています。谷陽院見龍寺―当時は円同寺―が涌谷伊達家の墓所になるのは宗重の没後三回忌からです。それ以降の歴代の邑主と夫人の霊屋が五棟、墓が十八基、整然と並び建っています。

なお、墓所の入口の県指定文化財である石製五重塔が、かの大震災で損傷し、その修理修復中に思いがけず宗重公の遺灰が発見されたのは震災翌年の六月のことでした。私たちの記憶にまだ新しいことです。関係資料の公開は町民にはもちろん、安芸ゆかりの地多賀城でも行われたそうです。

(涌谷町文化財保護委員:都築裕孝)

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