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更新日:2020年11月4日

みちのくの金の話

西暦七四九年、陸奥国小田郡(現在の涌谷町を中心とする地域)で日本初となる「黄金(砂金)」が産出し、東大寺大仏に使われた事は、皆さんご承知かと思います。

日本初の産金を慶祝した律令国家は、東大寺大仏の鍍金開始にあわせた七五二年、多賀以北の人々四人に一両(約十四g)の割合で砂金を採取し納税するように定めました。

当時の宮城県北地域にどれくらいの人口がいたか記録がないため、実際にどのくらいの砂金が納められたのか不明ですが、みちのくの人々が一粒一粒採取した「黄金」で大仏は完成を迎えたのです。

大仏が完成した後、七六〇年代になると「金」の採取は租税から交易雑物制という、地域の特産物として政府が買い上げする形になります。

この頃、陸奥国では領域の拡大・北進政策をすすめるようになり、桃生郡や栗原郡、気仙郡などが八〇〇年代初頭にかけてつくられていき、それに伴いみちのくの産金地も次第に開発・拡大していったと考えられています。

こうした背景を基に陸奥国から納められた砂金は、様々な仏具や荘厳の材料としてだけでなく、遣唐使や留学生の滞在や貿易決済など、貨幣として新たな役割を果たすようになります。

九〇一年、学問の神様として有名な菅原道真は、「上質な(陸奥の)金の多くは辺鄙から産出し、商いの対象となっている」と漢詩に詠み、九八三年、宋に渡った奝然は、「東の奥洲は黄金を産し、西の別島は白銀を出す」と産金の状況を東アジアへと伝えています。

みちのくの砂金が、国を超えて東アジアに広がり、経済や文化を支える資源となった様子が判ります。涌谷箟岳の砂金

その後、金の採取自体は、戦国時代にはじまる金山開発、明治の近代鉱業化、昭和の大型機械導入と、技術革新と共に栄枯盛衰を繰り返しながらも今に至るのですが、もともとは陸奥に暮らした一般の人々の手により、一つ一つ集められた砂金で歴史が紡がれてきたことに「みちのくの底力」を感じます。

天平ろまん館では、涌谷での砂金採りは、農閑期などに昭和までに続けられたことを、映像ブースで紹介しています。

写真は涌谷・箟岳の砂金(かとうまさゆき写真事務所)

(生涯学習課:福山宗志)

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