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更新日:2020年6月30日

涌谷宿の成立

涌谷宿

涌谷宿の原型は鎌倉時代中期に遡る。熊野先達「観性房豪祐」が「新山速玉雄神社」付近を拠点とした「奥州持渡津」にはじまる。

天正十九年(一五九一)、父元宗とともに亘理郡より転封した亘理重宗は、伊達政宗同様「関ヶ原の戦い」(一六〇〇年)以降本格的に「まちづくり」に着手した。慶長十年(一六〇五)「本町」が開かれ、商人たちには「伝馬役」が課せられた。その後、「川原町」、「新町」が本町に接続して開かれる。

正保年間(一六四四~四八)に作製されたと推定される「涌谷要害絵図」には、本町(「下町」と表記)のほか、立町、練丑町、田沼町、桜町の地域が「町屋敷」と表記されている。その他の地域は「侍屋敷」となっている。正保年代までは、「涌谷のまち」の中心は「新山速玉雄神社」周辺の桜町、田沼町付近であった。正保年代以降、本町に連なる川原町(成立年不詳)、新町(延宝二年、一六七四成立)が開かれた。商人たちは「伝馬役」を負担することで商売が許されたのである。

それまでの町屋敷は「侍屋敷」となり、本町、川原町、新町の三町から成る町場が、十七世紀後半以降、本格的な「涌谷宿」として発展したものと考えられる。

なお、行政上の村名は馬場谷地村であるが、交通、流通経済上は町場としての「涌谷宿」である。また、商人たちの身分は「百姓」身分扱いであった。

(涌谷町文化財保護委員長:櫻井伸孝)

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