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更新日:2016年5月12日
天保6年(1835)、沼部村(現在の大崎市田尻)から江戸に出立する一人の男がいました。
時代は、各地の海岸へ外国船の出現が相次ぎ、幕末へと大きく揺れ動く日本…
彼の名は、齋藤竹堂。涌谷伊達家の家臣・齋藤邦実の三男に生まれ、涌谷の私塾「坂元塾」から仙台の藩校「養賢堂」を経て、さらに学問を究めるべく江戸へ出立したのでした。この時二十一歳。涌谷の亘理往斎は、出立にあたり「林子平の手紙」を授け、その志を励ましたと言います。
竹堂の学才は、江戸で大きく花開きます。特に文章(漢文)を書く事に優れ、後に入学した幕府の学問所「昌平黌」では、師と寮生との間で一切の事務をとりしきる「舎長」に任命されます。また、イギリスと中国の清との間に起った戦争「阿片戦争」について情報をとりまとめ、その本質を評した「鴉片始末」を著し、最新の海外時事を的確にとらえたものとして広く普及しました。
そのような折、「父、病に倒れる」の報が竹堂のもとへ届きます。急ぎ、故郷へ帰るも、既に父は亡くなっていました。兄二人は既に他界しており、斎藤家の家督となる立場にあった竹堂は、涌谷伊達家の家臣として郷学「月将館」の学頭となります。この時、竹堂は三十二歳。彼が抱いた学問への志はまだ歩み始めたばかりでした・・・
儒学者として、郷土や日本の歩むべき道筋を考えようとした郷土が誇る偉人「斎藤竹堂」の足跡を辿る生誕200年記念展を開催します。
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